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土呂久・輝く闇

土呂久住民は、鉱山へ操業中止を求め、当時の村役場にも被害の実情を訴えたが、関心を示すことなく、村人は泣き寝入りするしかなかった。

土呂久鉱山は、1962年(昭和37)に閉山となり、被害の記憶は、土呂久の住民にさえも薄らぎ始めていた。しかし、全国的に、水俣病、四日市ぜん息、イタイイタイ病など、公害事件の被害者の救済が大きな社会問題になっていた時期と重なり、土呂久の子どもたちが通う岩戸小学校の先生たちが被害の実態を住民から聞き取り調査を始めた。それと共に、被害者の一人だった佐藤鶴江さんが、自らの救済を訴えて声を上げ、1971年(昭和46)に全国的に知られることとなる。